2008年 09月 25日
みちのく急ぎ旅 11/11 |
平泉・中尊寺
中尊寺は、嘉祥3年(850)、天台宗の高僧、慈覚大師円仁によって弘台寿院という寺が開かれたことに始まるといわれています。その後、長治2年(1105)より、奥州藤原氏初代清衡公によって多くの堂塔伽藍が建立されました。。「中尊寺」の寺号は、東北地方の中心という意味とも、また、たとえ辺境とされる地にあっても、今立っているその場所こそが自分にとって法界(仏さまの世界)の中心である、という意味が込められているともいわれています。清衡公の願いが実を結び、東北地方はおよそ100年間、大きな戦争のない平和な時代が続きます。この間、二代基衡公、三代秀衡公によって仏教による平和都市の建設が進みます。中尊寺の規模は「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」と伝え、さらに毛越寺、無量光院といった大寺院が都市の中核をなしていました。(中尊寺のホームページより一部抜粋)
有名な金色堂が撮影禁止のため、抜け殻となった旧覆堂を撮りました。 旧覆堂
鳴子峡
紅葉の時季が待たれます。
おしまい
中尊寺は、嘉祥3年(850)、天台宗の高僧、慈覚大師円仁によって弘台寿院という寺が開かれたことに始まるといわれています。その後、長治2年(1105)より、奥州藤原氏初代清衡公によって多くの堂塔伽藍が建立されました。。「中尊寺」の寺号は、東北地方の中心という意味とも、また、たとえ辺境とされる地にあっても、今立っているその場所こそが自分にとって法界(仏さまの世界)の中心である、という意味が込められているともいわれています。清衡公の願いが実を結び、東北地方はおよそ100年間、大きな戦争のない平和な時代が続きます。この間、二代基衡公、三代秀衡公によって仏教による平和都市の建設が進みます。中尊寺の規模は「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」と伝え、さらに毛越寺、無量光院といった大寺院が都市の中核をなしていました。(中尊寺のホームページより一部抜粋)
有名な金色堂が撮影禁止のため、抜け殻となった旧覆堂を撮りました。
鳴子峡
紅葉の時季が待たれます。
おしまい
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by taro25sep08
| 2008-09-25 22:00